「よろしかったでしょうか」問題について

これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ!

乱れた敬語とされている「よろしかったでしょうか」は文法的には全く間違っていない。「た」は婉曲表現であると明海大学井上史雄教授。

・「た」を使っても文法的に間違っていない。
・昔から「た」を使う表現が使われていた。
・全国的に広まっている。

「よろしかったでしょうか」の過去形の何がダメだったのでしょうか? - 女教師ブログ

「まだ俺は判断を示していないのに、過去形になるのはおかしい」という人が多いようだけれど、店員は相手が判断を示す前に「空気」を読んで、先回りで解釈していると考えれば、「よろしかった」の過去形のほうがむしろ自然だと思う。(そういう意味で、私の語感では、ここでの「〜かった」はどこかの言語学者が言う「婉曲表現」というより、やはり、過去を志向しているように聞こえるのである)

(コメント欄)
過去形(あるいは助動詞「た」)には「過去」の用法だけでなく、他にもいくつかあり、「確認」という用法もよく使われます。
例)「あなた誰でした?」「この火加減じゃ強すぎた?」
「よろしかった」も同じく形容詞過去形(助動詞「た」)の「確認」用法、が自然な分析だと思うのですが、婉曲と分析した学者さんは方言学が専門ぽいので、そちらの事情があるのかも。
terracaoさんの仰る「先回りで解釈している」は、この「確認」用法につながる語感ではないでしょうか。

私もこれは婉曲というよりも過去や確認の用法ではないかと思う。それとも昔はこういう形の婉曲用法があったのかなあ。その辺は詳しくないのでパス。
そもそもこれって「客である自分が言う前に勝手に決めつけるんじゃない」という不快感を文法の問題にすり替えるからおかしな事になっているわけで。だから文句を言うなら文法の問題ではなく、ちゃんと態度の問題として扱うべきだろう。
文法について言うと、ブコメにも書いたけど、「誕生日は来月でしたっけ?」なんかは過去の出来事ではない過去形だけど違和感は無いと思う。普段からそんなに時制にうるさい人が多いとは思えないんだよなあ。あと、蛇足として他の過去ではない過去形に「もしもピアノが弾けたなら」なんてのもあるけど、これなんかは仮定法が翻訳文学と一緒に入ってきたものだろうか。これも、時制がおかしいという人はあまりいないと思う。